2012年5月27日日曜日

バラバラ、でもいいや


河合隼雄の本が読みたい。

村上春樹との対談本を読んで、なんだか面白いなぁと気になっていたので前回日本に帰ったときに彼の本を一冊買っておいたのだ。しかしこっちに戻ってきてからなかなか読む気になれず、机の引き出しのなかに閉まっていた。そして先日、それとはまた別の『人の心はどこまでわかるか(2000)』という河合隼雄の本を読んで、一気に読みたい熱が湧いてきた。それがきっかけで持ってきていた本も読むことになり、さらに読み終えたあと、再度村上春樹との対談本を読み返してみるとまた違った面白さに気付く。

人間の内側について書かれたものを読んでいると、ついつい外界のことなど忘れてしまい、どんどん内側に入り込もうとする自分がいる。もっと知りたいと面白くてたまらないのだけど、ある程度まで踏み込むと怖くなり「今日はもうやめよう」と本を読んだり考えたりするのを中断する。知りたいのに、知ってしまうことに不安や恐怖がつきまとってくるのだ。その不安や恐怖こそが私の探究心をかきたてるのだけど、逆に不安を解消したくて誰かに答えを求めてしまう。そして毎回行き着くのは「誰も答えは持っていない、答えを持っているのは自分だ」ということ。今回も河合さん面白いなと思いながらも、「結局答えは何なんだ、ハッキリ言ってよ河合さん」と若干イラついている自分がいた。それに気付いたとき、途中一人で反省会をしたりなんかしたりして、そんな自分もなんだか可笑しかった。

私が持ってきた本というのが『子どもの宇宙(1987)』というやつで、なぜこの本を選んだかというと「子ども・宇宙・河合隼雄」と、私の気になるキーワードがただ揃っていたというだけで、中身も読まずにamazonでポチッと買ったのだ。面白かったので感想でも書きたいなと思ってこの記事を書き始めたのだけど、結局何を書こうか今迷っている。なかなか言葉に表すことが出来ないこのもどかしさ。昔から作文というか、言葉で伝えるのが苦手だ。

だから点メモが好きになった。言葉で表すのが苦手な私でも、ちゃんと言葉にできているのが嬉しかったのだ。自分の内側を誰かに伝えたくて、せっせと点メモをしまくった時期もあった。しかしここ最近はちょっと変わってきた、「言葉じゃなくてもいいか」と思うようになったのだ。昔から文章を書いたり、人に気持ちを伝えるのが苦手だったこともあり、それが出来る人に憧れる気持ちがあった。小中高の感想文の時間は大嫌いで、なにか熱い気持ちはあるのに一行も書けないという居残り組の常連だった。そんな自分がずっと嫌いだった。

しかし今ならこう思う、「絵でもいいじゃん、なんでもいいじゃん」と。今回本を読んだ感想も無理に言葉にしなくてもいっか〜と、今はそんな気分だ。言葉を上手に操れるのが大人だとか、そんなことを思っていたのかもしれない。自分の気持ちをきちんと伝えられるのが大人、伝えられない私は子ども、変な劣等感みたいなものが小さい頃から私のなかに植え付けられていたのかもしれない。

河合さんに今までの考えが一つぶっ飛ばされ、なんだか軽くなった気分だ。ここ1年ほど「世の中いろいろあっていいじゃないかスタイル」をとってきていたつもりだったけど、自分に対しては結構縛っていることが多い。『人の心はどこまでわかるか』のほうでも、そういう発見があり、この2,3日で気持ち的に随分と楽になった。河合さんの本を読むとまだまだ自分のなかでの縛りに気付くことができるかなと、そんなわけで、彼の本が読みたくてたまらないのだ。まぁ帰国するまでまだ長い時間があるので、それまでにまた気持ちが変わるかもしれないけど、そのときはそのときだne。


今日はいつも以上に話が飛びまくっている。
でもいっか。


昨日のzumbaの疲れが全然取れない、ずっしりカラダに残ったままだ。
湯船が恋しい、お風呂の文化ってほんと素晴らしいよね。

2012年5月25日金曜日

たまにはオシャレも

ネイルをしてもらう。
爪に色を付けるのは何ヶ月ぶりだろう、少女のように気分が高まる。爪の形を丸く整えて、ベースから4層にも重ねて丁寧に色をのせてゆく。あの塗ったあとの、しばらく何もできない時間がたまらない。手をパーに広げたまま何度もピンク色になった爪を眺める。私も女なんだなと思う瞬間だ。

明日はレッスンを3本受ける。うちインストラクター用を2本、ズンバレッスンin茂原のために、カラダにバンバン染み込ませてこなきゃne。いつも皆の会話のペースについていけなくて、「ごめんね、まだ上手に喋れなくって。ほんとはもっと話したいんだけど...」という私に、「私たちにはカラダがあるじゃない」と言ってくれるズンバの皆が好きだ。カラダで会話できるって素敵なことだなと改めて思うようになった。

Have a nice weekend!

2012年5月21日月曜日

武蔵になりたい、の巻

武蔵おもしろい、すっかりファンになってしまった。
宮本武蔵のカラダの使い方を書いてある本をさっきまで読んでいて、なんだかよく分からないけどスゴい!と興奮している。実際体験したことがないので「なるほど、分かる分かる」とは言えないけれど、なんとなくは分かる気がするのだ。武蔵も「フィーリングだ!」と五輪書のなかで言っているようなので、とりあえず私もイメージ、イメージ。武蔵の肖像画を初めて見たとき、なんてダラしのない男と思っていたけれど、あれが究極の状態なのだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/宮本武蔵


心を静かにゆるがせて、其ゆるぎのせつなも、ゆるぎやまぬやうに...

ゆるゆるになって、さらにそのゆるんでいる瞬間も、ゆるみが止まらないようにって。力を抜くのって難しいよね。考えてみれば、いつも無駄に力が入り過ぎていると思うし、力が入っていることにさえ気付いていないことも多い。何かをするときには力を抜くことを常に考えているけれど、やはり頭で考えているので変に疲れるし、というか考えたところで上手くできない。どんなときも自然とゆるんでいる状態を私もつくれたらなぁ。武蔵が感じたことを私も味わえたらどんなに面白いだろう。


本を読んで面白いところはまだまだあったのだけど、もう寝る時間なので今日はここまで。

【宮本武蔵は、なぜ強かったのか?『五輪書』に隠された究極の奥義「水」】高岡英夫(著)

2012年5月19日土曜日

わたしにできること②

前回の続き。



私は思う、もう争う時代は終わったのだ。つまり争う必要はもうないのだ。

「人間(動物)には元から「争う」ということが遺伝子のなかに組み込まれている、これはどうしようもないことなのだ。戦争、争いはあって当然、一生なくならないだろう。」

こう言う人がいるとする、そんな人に私はこう言いたい。

「遺伝子のせいにするなよ、私たちは変われる」と。

これまで私たちは進化を続けてきたし、これからも進化していく能力を持っているはずなのだ。「争う」原因は一体どこから来ているのか、生き残るために食べ物を奪い合うことならば、もう争う必要はないはずだ。食料を十分に生産できる能力はすでに持っているのだ、それを上手く利用できていないだけ。その他争う理由はどこにあるのか?地位、名誉、金、そんなもの理由にもならないだろう。

強い「意思」があれば私たちは変われる。大好きな毛利さんも「飛ぼうという意思があったからこそ、恐竜は鳥へと進化したのではないか。そこ(意思)に生き延びるという生命の秘密のようものを感じる。」と言っていた。(端折り過ぎているので、『宇宙から学ぶ(2011)』のP69あたりから読んでもらえれば...)
私たちもこれから生き延びるために、争うことではなく、争いを捨てることを選択していったほうがいいのではないか。もう武器はいらない、戦争もしない、差別もいらない、これはちっとも現実離れした意見ではないのだ。恐竜だって飛べるようになったんだ、私たちだってそれくらいのデッカイことはいつかできるのだ。もちろん変わりたくないと思う人もいるだろう、うちの母親なんかはそうだ。こういう話になると「今のままでいい、残された時間を静かに過ごしたい。変わりたくもないね。」といつも言うのだ。それはそれでいい、でも私は変わりたい。

別に押し付けようとは思っていない、こういう選択肢もあるよとただ言っているだけなのだ。いろんな選択肢があるということを知っておくことは大事だし、さらにその中から自分の意思で選択することが最も重要だと思う。当たり前のことのようで、出来てない人が多すぎると私は思うのだ。私自身もそうで、政治・経済のことはさっぱり分からない、選択するにも選択肢がないのだ。人から借りてきた知識でしか行動できていない。つい昨日から模造紙点メモを始めたところなので、これから勉強開始!というかんじなのだ。


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と、ここまで書いて、夜ご飯を食べることに。
食べながら苫米地の『圧倒的な価値を創る技術(2012)』を読んでいると、人類はもう「競争」を克服できる、と似たようなことが書いてあった。そのあと自分の書いたものを読み直して雑だなと思ったけれど、文章を書くのが下手なことは分かっているので、気にせずそのままにしておくことにする。この本も面白かったなぁ。

というか、苫米地もおだんご顔だよね。


...全然沈黙の艦隊の感想になっていない。
読み返すと当たり前のことばかり書いているような、変にムキになっているだけのような、これをupしようかちょっと迷っている。誕生日に鷹の目たかさんに言われた、「おバカの25歳、思いっきりバカになってね」と。痛い子になってないかな?と気にはなっているのだ、でも痛いかどうかは痛い子本人には分かるわけがない、だってそれが分からないのが痛い子なんだもの。

ダラダラとここまで書いてきたけれど、別にここに書かなくてもいいことなのだ。"行動する"ことが大事であって、何も言う必要はない。でも書いちゃったし、せっかくだもんね。最後にまとめようと思ったけれど、もうやめた。あとは海江田(主人公)のように行動あるのみ。


かわぐちさん(沈黙の艦隊作者)は言葉の言い回しが上手いので、ぜひ読んでみてほしい。伝えたいことをよく一言でバシっと言えるもんだなぁと感心してしまう。色んなことを考えるきっかけにもなると思うので、機会があればぜひ。

四郎とえっちゃん。いいな〜

2012年5月18日金曜日

わたしにできること①

沈黙の艦隊を読み終えてどれくらいが経つのだろう。
衝撃的な漫画だった。正直結末はパッとしなかったけれど(期待をし過ぎていた)、そこに行き着くまでは凄まじいストーリーだった。

全32巻、31巻を読み終えたところで思うことをすべて紙に書き出した。結末を知る前に自分なりの考えを出しておきたかったのだ。あの時はまず、知っている国の名前を全部書き出すことから始めた。私が言えたのは日本も含めてちょうど60カ国。確か200前後くらいだったよな〜と外務省のサイトを見てみると195カ国と書いてあった。その他サイトを見てみると、色々な基準があるためコレという決まった数はないということだったが、とりあえず200前後として私は約4分の1しか知らなかったことになる。

日本は北朝鮮を国家認証していないということを外務省のサイトで初めて知った。195カ国の中に北朝鮮は含まれていないのだ。国家認証すると何かまずいことでもあるのかな、それすら分からない私がいる。

国を書き出したあと、今度はその国々に対するイメージや知っていることを書き出す作業をした。書きながらすでに分かりきっていたのだけど、いざ書き終えたものを見てみると「私って何も知らないんだ」ということが一目瞭然だった。名前しか知らない、場所も分からないという国も多く、日本のことでさえも大したことが書けなかった。情けなかった。

今回私が強く思ったことは、「無知」が争いや差別、不安や不満、その他マイナスのことを生んでいるんだということだった。物事や相手のことをきちんと理解していれば、無闇に攻撃したりはしないと思うのだけど、どうだろう。相手を知るということは自分を知ることでもあると思う。とは言え、とやかく言える立場ではないので、まずは自分から変わろうと思っている。


核は絶対なくなる、戦争も差別もなくなる。
来年かもしれないし、20年後かもしれない、私が死んだずーっとずーっとあとかもしれない。いつかは必ずなくなる。それに向けてどんどん動き始めなければ。生きるのに精一杯でそんなことにかまってられないという人もいるかもしれない、それはそれでいい。その分私がこれから学んでおくから気にするな!と言いたい。まずは自分から、なのだから。

漫画のなかでは核廃止のために原潜を利用したシステムを導入しようという流れがあったが、最近お気に入りの苫米地英人が『日本の盲点(2011)』でも同じシステムのことを書いてあった。あくまでも一提案ということだったけれど、私は一提案としても反対だ。核を使って核廃止だなんて、気が狂っているとしか思えない、威嚇としてであっても核使用は間違っている。そんな考えを持っている限り、核はなくならないであろう。

昔、Govinda(yogaの先生)とこんな話をした。

O:「私はこの世から戦争をなくしたいです。でも、もし自分が銃を向けられたとして、もしくは日本が爆撃を受けたとして、自分や家族、周りの人たちを助けるために私も武器を持って戦うべきではないのですか?ヨガ、あなたの教えでは、どんな状況であっても戦うべきではないと言っているけれど、まずは生きること、命を守ることが最優先なのではないのですか?」

G:『その考えを持っている限り、世の中からは武器、戦争はなくならない。まずはその考えから捨てなさい。』

O:「じゃあ黙って殺されろってことですか?」

G:『おだんごはこの世から戦争をなくしたいんだよね。』

O:「そうです。」

G:『君のなかに例えば銃を持って戦うという考えがある限り、この世からも銃や戦争はなくならないんだよ、わかる?』

O:「でも、死んだら何もできないんですよ。それでも先生は同じことを言うんですか?」

と、その後も私が何を言っても「その考えをまず捨てなさい」としか彼は言わなかった。その時は、「Yogaの教えってずるい」「Yogaをやってても私は死ぬだけだ」「結局GovindaやYogaの言うことって世の中では通用しないじゃん」と思っていた。

しかし、今なら分かるような気がする。そう言えば、同じようなことを吉福さんも言っていた。自分が今見ている世界は自分自信を投影したものだと。



つづく。

からだで読む

竹内敏晴・木田元の『待つしかない、か。(2003)』を読む。
前に一度読みかけて、あまりの分からなさに放り投げていた1冊だった。今朝は目覚めもよく、なんとなく今なら読めそうと思い、途中2度ほど眠りに落ちながらも昼前には一応読み終えた。しかし、やはり今の私にはほとんど理解できず、果たしてこれを読んだと言えるのだろうかと思うけれど、まぁ一応最後まで一度読み終えたということにしよう。

木田さんは言っていた、「からだで読むんだ」と。そこは私にも分かる気がした。毎日少しずつでも読んでいると、だんだんからだが文体に慣れていき、そうなると著者の言っていることもよくわかってくる、と。難しくて投げ出した本が今までに何冊もあるけれど、今夜からまた読み始めてみようという気持ちが湧いてきた。

途中、「外から来る価値を拒否する」という節があって、3ページほどだったけれど面白かった。「自分の生活の外から持ち込まれてきた価値、いわば超越的な価値として提示されたものを拝跪して受け入れることだけは絶対に拒否する気持ちが強くあった」と竹内さん。ヒューマニズムだろうとキリスト教であろうとマルキシズムであろうと、、、などと例を挙げていたけれど、もっと小さなことでもいいのだと思う。私にとってはこの本に書いてある竹内さんや木田さんの言葉だって外から来るもので、鵜呑みにはしないからなと思っている。何かを読むときや人と話すときもそうだ。別に否定しているわけではなく、自分の言葉でストンと理解するまでは納得できないのだ。

竹内さんはそのあと「しかし外から来たものをはねつけるといったって、それじゃあ自分の中に何があるか、ゼロだ。」と言い、「では自分というものをどこで見つけたらいいか、その根拠を一生懸命探す」というかんじで話が続いていく。で、その辺からまた分からなくなった。

面白い、わからない、その繰り返しだ。


終盤に差し掛かった頃、結局この2人は何が言いたいんだろう?とそのままのかんじで読み進めていたのだけど、竹内さんのこの言葉に惹かれた。

『「しぶとく生きる」という言い方しか見つかりませんが、これは「待つこと」でもあろうかと思っています。「待つ」とは何もせず坐っていることでもなくて、仕掛けようと支配しようとすることを断つこと、生起して来るものへ向かって身を謙虚に保ちつづけることだろう、と。』

あぁ、これって私に足りないものだなと思った。私は頭で考えることが多すぎる、無駄なものが多過ぎて、竹内さんの言葉を借りると「身を澄ます」ということが苦手なのだ。カラダの深い部分に集中してみたい、私もこれを体験してみたい、さっそく今日から始めよう、訓練だ。

結局今回読んでみて、何かをするにも、何かを理解しようとするにも、やっぱりカラダからなんだなとそれくらいのことしか分からなかったけど、今はそれだけで十分だと思った。一生懸命読んだ自分ばんざーい。



ふと、沈黙の艦隊の感想を書こうと思ったので、また明日にでも。
おだんごブログを読んで、何かを考えるきっかけだったり、何かを始めるきっかけになってくれるといいなぁなんていつも思っているのだけど、どうかしら。ただの日記にはしたくないなと始めから思っていて、いつも書くときは何気に悩んだりしているのだ。

とりあえずまた明日。

2012年5月17日木曜日

The continuance of Odango's story


英語の宿題でいつもおだんごストーリーを書くことになっている。
今月に入ってから「おだんご、yogaに出会う」の章にやっと入って、ちょうど今、スタジオで働き始めた頃のことを書いている。働き始めた頃はとにかく辛くて、華やかなインストラクター生活を夢みていた私にとって現実は厳しく、毎日のように怒られシャワー室でよく泣いていた。しかし先輩たちは無闇に怒っていたのではなく、私のことを本当によく思ってくれていて、きっと毎回注意するのもエネルギーがいったことだろう。二十歳前の私は本当に世間知らずで、今よりもっと小生意気な奴だったのだ。

私と20歳離れた先輩がいて、私は彼女に憧れていた。彼女と一緒に働きたくてそのスタジオを選んだほど、もうかっこよくて仕方がなかった。当時は早く彼女のようになりたくて、真似をする日々が続いた。思いっきり背伸びをして、勝手に私も一人前だと思い込み、周りからは痛い子としか見えなかったであろう。同じスタジオの先輩たちはあの手この手で私にそれを伝えようとしてくれていたのだけど、当時の私はさっぱり理解することが出来なかった。考えても考えてもどうしたらいいか分からず、聞き返すも「焦るな」と言われるだけで「焦ってないもん」と思うばかりだったのだ。

結局それを理解するのに3年はかかっただろう。その他振る舞い方やクラスの進め方なんかは日が経つと共に成長していったけれど、「わたしらしく」という言葉が本当に分からなかったのだ。普段生活をしているなかでは「おだんごらしいね」と言われるのに、いざクラスが始まると「全然おだんごらしくなかった」と言われ、それがずっと辛かった。自分では自信を持って自分らしいレッスンをしているのに、それを「あなたらしくない」と全員から否定され、あるときは電車のなかで悔しくて涙が止まらなかった。


まぁそんな日々を経て、今の私がいる。

その憧れの先輩はもちろん今も現役でバリバリ教えている。当時から勉強熱心で、彼女のそばにいなかったらヨガに対してもそんなに勉強しようとは思わなかっただろう。私はいつも彼女に「いつか追い越すからね」宣言していたのだけど、そう言うと必ず「おだんごには負けたくないね、差は縮めさせないよ」と返してきていた。彼女からは一番きついムチも受けたし、一番甘いアメももらった。私が辞めると言ったときも「そろそろだと思っていたよ」と喜んで背中を押してくれた一人でもある。本当に素敵な人だ。

こんなことをおだんごストーリーに書いていると、懐かしくてちょっと泣けてきたので、ここにも書くことにした。


最近めずらしく漫画を読んでいなかったのだけど、昨日からまた新しい漫画を読み始めた。1日1冊にしようと思っていたのに、気付けば4冊、あっと言う間だ。その中のテイちゃんという女の子が本当に勉強熱心で、しかも今朝HONDAの創始者、本田宗一郎さんの本も読んだので、私の勉強熱は一気にヒートアップしている。

2012年5月16日水曜日

学校教育

炭谷俊樹の『第3の教育(2000)』を読んだ。
似たようなことを私も考えているので特にひっかかる箇所もなく最後まで読み終える。以前学校を造りたいと思っていて(今は思っていない)、何人かには話もしていたのだけど、炭谷さんは実際に神戸でラーンネット・グローバルスクールという学校を経営している。

日本の教育に対しての疑問や不満は山ほどある。中学の頃から感じていて、ヨガのトレーニングコースを受けた後はさらに強く思うようになった。今のままの教育を続けていると日本がダメになる、じゃあどうする、よし、私が思う学校を造ろう、と考えたのだ。しかし調べている内に資金、資格、場所、仲間、生徒集め、、、色んなことが絡んできて、面倒くさいなぁと思うようになり、なにかもっと別の方法はないかなぁと考えるようになった。私がやりたいのはそんな大きなことではなく、もっと身近なものなのだ。

ラーンネットのサイトを見てみると入学金200.000円、年学費720.000円、バス代72.000円と書いてある。炭谷さんの本を読む限りでは、カリキュラムはきっと素晴らしいものなのだと思うけれど、ちょっと高いな〜というのが正直な気持ち。子育て未経験なのでなんとも言えないのだけど、実際そんなものなのかなぁ。この金額、たぶん私立の小学校と同じくらいだと思うのだけど、公立だと50.000~60.000円で済むよね。ここに給食費やら制服代やらお稽古代やらが入ってくると、ほんと子育てってお金がかかるんだなと改めて思った。

と、お金の話がしたかったわけじゃない。結局私は何がしたいんだろうと朝から思っているのだ。確かに子どもの頃から変な教育を押し付けられなければ、自分の意見がないだとか、好きなことがないだとか、創造力がないだとか、そういった問題は軽減されるのかもしれない。しかしラーンネットのようなフリースクールや、似たような私立学校に通うことのできる子どもは果たして全体のどのくらいの割合なのだろう。私は愛媛の田舎で育ったけれど、私立に通うことは稀で、もとより私立の学校がほとんどない状態だった(現在もそうだと思う)。結局、子どもは自分の行きたい学校に行くと言うよりは、親の都合で行く学校が決まると言えるだろう。というか、そんな教育事情など子どもが知っているわけがない。全部大人の都合なのだ。

元からある日本の学校教育ではなく、子どもの可能性を存分に広げたり、自由に学ばせるようなスタイルを取る学校に通わせればそれでいいのか?

そんなことよりも、一人でもかっこいい大人に出会えれば私はいいと思う。私は小・中・高と公立に通い、腐った教育(言葉遣い悪いな〜)を12年間も受けたけれど腐らずにすんだ。たった一人でいいのだ、もっといてもいいけどね、その出会いで人生が大きく変わるかもしれないのだ。私は23歳のときにやっとその大人に出会えた。それまでの23年間が一気にぶち壊された感もあったし、逆にこれまで持っていたものを何倍にも大きく膨らましてもらった感じもある。

続きを話せば長くなるので今回は端折るけれど、私の考えと同じことを宮台真司が『14歳からの社会学(2008)』で書いてあるので、ぜひ読んでみてね(特にP127~)。例に挙げていることも同じすぎて、宮台さんマネしないでよと思うのだけど、彼のほうが先に出版してるんだよね。

とまぁ、これから日本はどうなっていくのだろう。
私はもっともっと素敵な国にしていきたいな。


話は変わり、
昨日アランと勉強をしていて、KiwiとAussieとUSAとBBC Englishの発音の違いを教えてもらった。アランが鼻声だったので「風邪引いてるの?」と聞くと「アイム エル」と言われたので「は?エル?」と3回くらい聞き直したあとに「これがKiwiの発音なんだ」と言われ、結局エルとは「ill」のことだった。
アランがBBC Englishで育ったのと、ニュージーもどちらかと言えばBBCよりなので、私の発音も知らぬ間にそっちになっている。Aussie訛りのことはよく聞いていたけれど、Kiwiの訛りも負けてはいない。'fish and chips'は'fush and chups'という発音になる、ふぁっしゅえんちょっぷす。まぁcity内で会話する際にはそんなに気にはならない。というか、まだそこまで違いに気付いてもいないのだろう。アランも、田舎にいかないとKiwi訛りはそこまで気にならないよと言っていた。

New Zealanders can be guilty of mumbling, speaking very fast, and not opening their mouths very wide.

こうも言われ、じゃあNZで英語を勉強するって難しいじゃんと笑いながらも若干複雑な気持ちになった昨日だった。

2012年5月15日火曜日

ぽっこりニュージー2

最近雨が多い、おかげで頭も痛い。でも雨は好き。
食欲があるのはいいことだけど、おかげで順調にお腹がぽっこり出てきている。そろそろ気をつけないとな。


zumbaを始めて1ヶ月半以上経つだろうか、やっと常連さんたちにも普通に絡めるようになり、ちょっと仲間入りしたような気分だ。毎日同じ場所に行くのも大事なことだね。常連さんたちの間ではzumbaライセンスを取るのが流行っているらしく、おだんごも取っちゃいなよ!とよく言われる。ライセンスは2~3万で取れ、ベーシックからアドバンスといくつかレベルもあるらしい。しかしライセンスの有効期限が1年間で、切れるともう一度お金を払って受けるというシステムなんだとか。そしてそのライセンスを取った友達がクラスを開きたいと今練習中で、最近それに私も参加するようになった。

受ける度にフィードバックをしてあげたいなと思うのだけど、なかなか難しくていつも言えないまま帰っている。普通に話す分には英語がきちんと喋れていようがいまいが関係ないのだけど、フィードバックはそうもいかない。日本人相手でさえもかなり言葉を選んでいるほど、フィードバックはとてもデリケートなものだと私は思っている。ハッキリ伝えるのは大事なことだけれど、相手が伸びるように、自分自身で気付くように、焦らさないように、ただ指摘するだけのフィードバックはしたくないのだ。

練習し始めの頃というのは大体皆同じことをするんだなと、自分も昔そうだったと懐かしい気持ちで練習に付き合っている。新鮮さもあるし、その反面もう全部言ってやりたいようなもどかしさもあったり、なかなか面白い。でもやっぱり気になるので、次受けたときは軽く話してみようかなと思っている。それにしても、zumbaトレーニングでは何を教えているのだろう。コースを受けた人たちを見ていると、ただこういう動きがありますよ的なかんじなのかもしれない。創始者、かなり儲けているに違いない。

日本のヨガやフィットネスのクラスの質はかなり高いと思う。こっちにきてたくさんのインストラクターのクラスを受けたけれど、もっとこうしたらいいのになと思うことが多すぎる。スタジオやジムの数、インストラクターの数が少ないため毎回大盛況なのだろう。日本、というか東京は、ほんとサバイバルなんだなーと思う。日本のzumba事情がどうなっているのかよく分からないけれど、日本人にはzumbaのノリが必要なんじゃないかと最近思っているので、帰国したらとりあえず茂原でzumbaレッスンをやってみよう。

帰国してからのことはまだ全然分からない、どうなっているのか自分でも予想不可能だ。1ヶ月前に思っていたことと、今思っていることはまた違うし、ほんとコロコロ気が変わる奴だなと思う。



今朝はKonradとSkypeをしていて良いことを教えてもらった。
というか、相変わらずユーモアたっぷりで、彼には敵わないなと思った。こっちが上手いこと言ったなと思っても、さらにその上をいく。やっぱり私に足りないものはユーモアだ。ということで、8月は修行のため再びウィーンへ行ってくるyo

2012年5月10日木曜日

大きくなあれ

良い食いっぷり、見てるだけで気持ちがいい。
友達が知らぬ間に2人も子どもを産んでいて、その子どもたちの写真がどれも面白い。良い顔してるんだよね。短大の頃の友人は皆、私のことを苗字で呼ぶので、この前久々に呼ばれてなんだか懐かしかった。もちろん普段から苗字で呼ばれることは多いのだけど、短大以外で出会った人たちは苗字で呼んでも「◯◯ちゃん」と、必ず「ちゃん」付けしてくれるのだ。しかし、あの短大の2年間だけは苗字のみ。当時付き合っていた彼氏も最後まで私のことを名前で呼ばず、苗字で呼んでいたのが変な思い出だ。

いつも人とあまり連絡を取らないのだけど、この3日間くらいでかなりの人数と連絡を取った。知らぬ間に結婚していたり子どもが産まれていたり、新しいことを始めていたり、本当に嬉しい報告ばかりを聞いて、もうそれだけで幸せな気分になった。皆が楽しそうにしていることが私は何よりも嬉しい。あまりのテンションで昨日はなかなか寝付けなかった。そして起きてみると、さらに嬉しいメールが届いていたので今日も朝からテンションが高い。もう静まりたくないくらい、しばらくこのままで過ごしたい。

私のなかでも何か起こりそうな、そんな予感。昨日から私のココロはそわそわ、わくわく。NZに初めてきたときの飛行機のなかを思い出す。


ゴー!おだんご、ゴー!

2012年5月7日月曜日

ぽっこりニュージー



昨日小説が無性に読みたくなって図書館へ行った。二十歳前後の頃はサスペンスものがとにかく好きで読み漁っていたけれど、最近は小説すら手に取る機会が少なくなっていた。図書館へ行ったものの、日本のコーナーはほんと小さなもので読みたくなるようなものは無いと言ってもいいくらい。そんななか山田悠介の文庫がいくつかあったので、『パズル(2004)』というやつを借りてみる。名前は知っていたけれど、彼の本は今までに読んだことはなかった。あのリアル鬼ごっこや親指さがしの著者だ、たしか映画にもなったよね?もちろんそれも見たことはなかったので、初めて彼の作品に触れることになった。

とまぁ2時間ほどで読み終えたわけだけど、面白くなかったなぁ。リアル鬼ごっこは70万部を超えたとカバーの内側に書いてあったけれど、ちょっと信じられない。


こっちでの娯楽と言えば読書と映画くらいしかないので、毎日何かしら読んだり見たりを繰り返している。最近やっと英語の字幕で映画が見れるようになった。いつか字幕なしで見れる日が来るのかな〜はやく来ないかな〜。海外ドラマのFRIENDSが昔から好きで、実家には全シリーズが揃っているのだけど、またこっちで買ってよく見ている。日本で買ったときはいくらで購入したのか忘れたけれど、それよりもはるかに安く売っているので嬉しいような悲しいような複雑な気持ち。1シリーズが9.99NZドルなんだから、ほんと嫌になっちゃうよね、破格。でも毎日笑わせてもらっているのは有り難い。

笑いと言えば、爆笑問題カーボーイというラジオを知っているだろうか。去年の12月からpodcastで聴くようになったので、リスナー歴はまだまだ浅いのだけど、完全に私のツボだ。くだらないところも多いけれど毎回必ず笑ってしまう本当に困った番組だ。最近ipod touchを買ったので、さっそく散歩をしながらpodcastを聴いてみることにしたのだけど、、吹き出してしまいすぐに英語に切り替える。もう絶対外で聴けないなと、3分ほど顔を下に向けたまま笑いを堪えた。

最近よく笑っている。この前アラン宅でレッスンの後にゴハンを食べた日、ノリコさんがゴハンの支度をしている間、私はアランとyoutubeを見ながらずっと大爆笑していた。日本語は分からないけど、日本のバラエティ番組は面白いねとゲラゲラ笑うアランが面白かった。こういう時間を過ごしていると、ほんの数ヶ月前のメソメソしていた自分が可愛く思えてくる。辛かった時期は毎日ぎっしりと日記を付けていたけれど、今は書き忘れる日が多いくらいだ。25年間のなかで一番のんびりした時間を今送っている。


のんびりしすぎてお腹ぽっこり。
zumbaがんばってるのにな。

2012年5月2日水曜日

ジム生活



風が冷たくなり、虫の鳴き声も変わり、葉っぱも少しずつ色づいてきた。
秋といえば金木犀、どこかにあるといいな。


昨日はなかなか寝付けず、朝ズンバの時間には起きれないだろうと思っていたけど、結局レッスン15分前に目が覚めて行くことにした。やっぱり近いところに通うのが一番だ、私のアパートとジムは5分もあれば着くので有り難い。寝起き15分後によくここまでテンションを上げられるものだなと自分でも感心するほど、私のカラダは元気に動いてくれる。

今日はなんだかカラダを動かしたい気分で、昼前にもう一度ジムに行って今度はバレエのクラスを受ける。やっていることはシンプルなのだけど、ズンバやヨガよりきつかった。すでにズンバに飽きを感じていたので、バレエの動きに新鮮さを感じる。

ズンバ、ヨガ、バレエ、ジャンルが異なるのでクラスの雰囲気も全然違い、そこが結構面白い。ズンバに来る人たちはかなりパワフルで、良い意味でふざけるのも大好きな人たちが多い。あと自分のことが大好きなのだろう、酔いしれるようにカラダをクネクネ。ヨガは日本のヨガスタジオと似たようなかんじで、ちょっと独特な雰囲気がある。皆の目がどこか一点を見つめているようで、怖いような、でも神聖さも感じる。あと頑張り屋さんが多いのだろう、一生懸命さがビンビン伝わってくる。そしてバレエ、可愛い子が多い。大人しそうで、リボンが似合いそうな、そんな雰囲気だ。

いつもクラスの帰りに地下にあるボルダリングルームを上から覗くのだけど、いつも男子しかいないのでちょっと行き辛い。こっちで通うつもりでシューズにチョークまで持ってきているのに、まだ行けていない自分が少しもどかしい。階段を降りればいいだけなのに、その階段にすら近づけない。東京で通っていたときも男の人ばかりだったので、始めの何回かはかなり緊張した、あれをまた味わうのかと思うと......、でもやり始めると楽しくてそんなことはどうでもよくなる。あと一歩、ほんのちょっとの勇気でいいんだけどな。



そうだ、この前受けたヨガ、ダウンドックから肘を着く流れになったのでまさかとは思ったけれど、予感的中。ピンチャマユラーサナにトライしろと言う先生が信じられなかった。スタジオには約50人、マットぎゅうぎゅう。壁無しサポートなし、しかもここはアシュタンガのスタジオでもない、普通の大学のジムだ。

誰かが怪我をするんじゃないかと、冷や冷やしながら数分を過ごした。日本じゃ絶対やらせないだろうね。しかしそれからというもの、部屋での練習を始めた。やっぱり壁なしで出来るとかっこいい。


あ、洗濯物をまわしてたのをすっかり忘れてた。
良い1日を。