村上春樹との対談本を読んで、なんだか面白いなぁと気になっていたので前回日本に帰ったときに彼の本を一冊買っておいたのだ。しかしこっちに戻ってきてからなかなか読む気になれず、机の引き出しのなかに閉まっていた。そして先日、それとはまた別の『人の心はどこまでわかるか(2000)』という河合隼雄の本を読んで、一気に読みたい熱が湧いてきた。それがきっかけで持ってきていた本も読むことになり、さらに読み終えたあと、再度村上春樹との対談本を読み返してみるとまた違った面白さに気付く。
人間の内側について書かれたものを読んでいると、ついつい外界のことなど忘れてしまい、どんどん内側に入り込もうとする自分がいる。もっと知りたいと面白くてたまらないのだけど、ある程度まで踏み込むと怖くなり「今日はもうやめよう」と本を読んだり考えたりするのを中断する。知りたいのに、知ってしまうことに不安や恐怖がつきまとってくるのだ。その不安や恐怖こそが私の探究心をかきたてるのだけど、逆に不安を解消したくて誰かに答えを求めてしまう。そして毎回行き着くのは「誰も答えは持っていない、答えを持っているのは自分だ」ということ。今回も河合さん面白いなと思いながらも、「結局答えは何なんだ、ハッキリ言ってよ河合さん」と若干イラついている自分がいた。それに気付いたとき、途中一人で反省会をしたりなんかしたりして、そんな自分もなんだか可笑しかった。
私が持ってきた本というのが『子どもの宇宙(1987)』というやつで、なぜこの本を選んだかというと「子ども・宇宙・河合隼雄」と、私の気になるキーワードがただ揃っていたというだけで、中身も読まずにamazonでポチッと買ったのだ。面白かったので感想でも書きたいなと思ってこの記事を書き始めたのだけど、結局何を書こうか今迷っている。なかなか言葉に表すことが出来ないこのもどかしさ。昔から作文というか、言葉で伝えるのが苦手だ。
だから点メモが好きになった。言葉で表すのが苦手な私でも、ちゃんと言葉にできているのが嬉しかったのだ。自分の内側を誰かに伝えたくて、せっせと点メモをしまくった時期もあった。しかしここ最近はちょっと変わってきた、「言葉じゃなくてもいいか」と思うようになったのだ。昔から文章を書いたり、人に気持ちを伝えるのが苦手だったこともあり、それが出来る人に憧れる気持ちがあった。小中高の感想文の時間は大嫌いで、なにか熱い気持ちはあるのに一行も書けないという居残り組の常連だった。そんな自分がずっと嫌いだった。
しかし今ならこう思う、「絵でもいいじゃん、なんでもいいじゃん」と。今回本を読んだ感想も無理に言葉にしなくてもいっか〜と、今はそんな気分だ。言葉を上手に操れるのが大人だとか、そんなことを思っていたのかもしれない。自分の気持ちをきちんと伝えられるのが大人、伝えられない私は子ども、変な劣等感みたいなものが小さい頃から私のなかに植え付けられていたのかもしれない。
河合さんに今までの考えが一つぶっ飛ばされ、なんだか軽くなった気分だ。ここ1年ほど「世の中いろいろあっていいじゃないかスタイル」をとってきていたつもりだったけど、自分に対しては結構縛っていることが多い。『人の心はどこまでわかるか』のほうでも、そういう発見があり、この2,3日で気持ち的に随分と楽になった。河合さんの本を読むとまだまだ自分のなかでの縛りに気付くことができるかなと、そんなわけで、彼の本が読みたくてたまらないのだ。まぁ帰国するまでまだ長い時間があるので、それまでにまた気持ちが変わるかもしれないけど、そのときはそのときだne。
今日はいつも以上に話が飛びまくっている。
でもいっか。
昨日のzumbaの疲れが全然取れない、ずっしりカラダに残ったままだ。
湯船が恋しい、お風呂の文化ってほんと素晴らしいよね。












