iTunes UでMichael J. Sandelの講義を見始めたのがきっかけで、結局英語で理解したのは2講義だけだったけれど、その続きを日本語でさっき読み終えた。本屋に行く度にMichael J. Sandelの名前をよく見かけていたので名前だけは知っていたのだけど、読んだことは一度もなかった。『これからの「正義」の話をしよう』、この題名、見たことない?本屋さんでいつも「これ売れてます」印がついていたのを覚えている。私が今回読んだのは書籍ではなく、とあるサイトの日本語訳だったのだけど。
始めは英語でも楽しかった。分からないところをアランに聞きながら一生懸命講義を聴いていた。しかし、〇〇主義、◯◯派の話になってくると、どんどん英語で聴く・読むのが面倒になり、さらにはカントが登場したので完全に諦めてしまった。それでもこの講義の最後の展開がどうなるのかが気になり、日本語訳で最後まで読んだというわけだ。
正義とは何か、この答えが欲しくてこの本を読んだり講義を聴いたりするとあまりスッキリしないかもしれない。なぜなら、マイケル自身、まだ答えが出ていないようで最後はまた振り出しに戻っているのだ。最後の締めはこれだ...
When we first came together some 13 weeks ago I spoke of the exhilaration of political philosophy and also of its dangers, about how philosophy works and has always worked by estranging us from the familiar, by unsettling our settled assumptions and I tried to warn you that once the familiar turns strange, once we begin to reflect on our circumstance it’s never quite the same again. I hope you have by now experienced at least a little of this unease, because this is the tension that animates critical reflection and political improvement and maybe even the moral life as well and so our argument comes to an end in a sense but in another sense goes on. Why, we asked at the outset, why do these arguments keep going? Even if they raise questions that are impossible ever finally to resolve, the reason is that we live some answer to these questions all the time. In our public life and in our personal lives philosophy is inescapable, even if it sometimes seems impossible. We began with a thought of Kant that skepticism is a resting place for human reason where it can reflect upon its dogmatic wanderings but it is no dwelling place for permanent settlement, to allow ourselves simply to acquiesce in skepticism or in complacence, Kant wrote, can never suffice to overcome the restlessness of reason. The aim of this course has been to awaken the restlessness of reason and to see where it might lead and if we have done at least that and if the restlessness continues to afflict you in the days and years to come then we together have achieved no small thing. Thank you.
まぁ長々とすべて読んでみたものの、彼がこの講義で言いたかったことはこの最後の部分を読むだけでも十分だと思う。私は前から哲学っぽい本を読むのが好きだった、もちろん哲学者の本も分からないなりに読もうと何度も手に取った。答えのない問題を考えるのが好きだった、「なぜ生きているのか」、何度考えたか分からない。でも急に嫌になった、考えていると変に落ち込むのだ。この手のことを考えてハッピーになったことはない、一日中ああでもないこうでもないと頭のなかをグルグル、何もしたくなくなる。
スピリチュアルも同じようなかんじだった。昔はスピリチュアルが大好きだった、あっちの世界にどれほど胸を膨らませていたことか 。でもある日突然目が覚めたように好きじゃなくなった。危ないなと思ったのだ。確かに目に見えない世界もあると思うし、目に見えない力を信じることもかまわない。けれど実際生きているのはそっちの世界ではなく、ここ。そっちに浸り過ぎると危ない。自分がそうだったからなのだけど、スピリチュアルの方向に行き過ぎると、上から目線で世の中や人を見てしまう傾向はないだろうか。魂のレベルが...なんて、よくもまぁバカげたことを考えていたなと今は思っている。あと、この世の中は狂っていると現実を見なくなっていたのも確か。
だからと言って、スピリチュアル的な生き方をしている人を否定するわけでもなく、嫌いになるわけでもなく、それはそれでいいと思っている。私だって、木々を見れば魂を感じるし、海を見れば地球も生きてんだなぁなんて毎回思うのだ。でもね、神様がこう言うからとか、そういうのは止めた。あれ、なんでスピリチュアルの話を始めたんだ?そうだ、スピリチュアル熱がある日一気に冷めたように、哲学熱も最近ふと冷めたんだ。それが言いたかった。
で、正義の話に戻るけど、Michael J. Sandelは(政治)哲学の使い方をこう言ってるんだ。哲学というものは、私たちがこれまで全く疑問にも思わなかったことに問いを投げかけて人々を悩ませ、考えさせる。例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」とか、そんなの当たり前でしょと思うかもしれないけれど、果たして殺人は罪だと言い切れるのか。私は家族を人質に取られ、とある一人を殺さなくてはならなくなったとする。そのとある一人とは面識もなく、相手は両親も妻子もおらず独り身。その一人を殺せば私を含む家族4人の命は助かる。しかしその相手を生かせば4人の命は無くなる。この状況でも殺しはいけないのか、1人が死ねば4人が助かる。これが例えば100人だったらどうなるのか、1人を殺せば100人が助かる。哲学者、そして私たちは長年同じことを議論しているけれど、未だに答えは出ていないのだ。懐疑主義といって、そんなことを考え続けるのはナンセンスだ!現実をみろ!という主張もあるけれど、それでも人々は同じことを考え続けている。それはなぜか。
The reason is that we live some answer to these questions all the time.
その疑問に答えを出しながら日々生きているから、と彼は言う。(翻訳サイトでは、これらの質問に対する答えを生きているからだ、とも書いてあってそれもいいなと思う。) さらに続けて、答えなどなくても哲学は避けられない、哲学を学ぶことで不安定な気持ちにもなるだろうけど、その不安が考え方や政治の行い方など、様々な場面で役に立つんだ、と言っている。
最近、哲学っぽく考えるのはもう止めようと思っていた。懐疑主義のように、考えても無駄だと思うようになっていたし、さっきも書いたけど、考え過ぎて不安になって、さらには何もする気が起きなくなる状態にわざわざ自分を持っていきたくなかったのだ。しかし今回これを読んで、ちょっと気持ちが変わった。というか、私の考えることなんて哲学というよりただの悩み事だけどね(笑)まぁこれから哲学に触れる機会があったとしたら、上手に吸収していきたいなと思う。何事もバランス。
あー、書き過ぎちゃった。
始めは英語でも楽しかった。分からないところをアランに聞きながら一生懸命講義を聴いていた。しかし、〇〇主義、◯◯派の話になってくると、どんどん英語で聴く・読むのが面倒になり、さらにはカントが登場したので完全に諦めてしまった。それでもこの講義の最後の展開がどうなるのかが気になり、日本語訳で最後まで読んだというわけだ。
正義とは何か、この答えが欲しくてこの本を読んだり講義を聴いたりするとあまりスッキリしないかもしれない。なぜなら、マイケル自身、まだ答えが出ていないようで最後はまた振り出しに戻っているのだ。最後の締めはこれだ...
When we first came together some 13 weeks ago I spoke of the exhilaration of political philosophy and also of its dangers, about how philosophy works and has always worked by estranging us from the familiar, by unsettling our settled assumptions and I tried to warn you that once the familiar turns strange, once we begin to reflect on our circumstance it’s never quite the same again. I hope you have by now experienced at least a little of this unease, because this is the tension that animates critical reflection and political improvement and maybe even the moral life as well and so our argument comes to an end in a sense but in another sense goes on. Why, we asked at the outset, why do these arguments keep going? Even if they raise questions that are impossible ever finally to resolve, the reason is that we live some answer to these questions all the time. In our public life and in our personal lives philosophy is inescapable, even if it sometimes seems impossible. We began with a thought of Kant that skepticism is a resting place for human reason where it can reflect upon its dogmatic wanderings but it is no dwelling place for permanent settlement, to allow ourselves simply to acquiesce in skepticism or in complacence, Kant wrote, can never suffice to overcome the restlessness of reason. The aim of this course has been to awaken the restlessness of reason and to see where it might lead and if we have done at least that and if the restlessness continues to afflict you in the days and years to come then we together have achieved no small thing. Thank you.
まぁ長々とすべて読んでみたものの、彼がこの講義で言いたかったことはこの最後の部分を読むだけでも十分だと思う。私は前から哲学っぽい本を読むのが好きだった、もちろん哲学者の本も分からないなりに読もうと何度も手に取った。答えのない問題を考えるのが好きだった、「なぜ生きているのか」、何度考えたか分からない。でも急に嫌になった、考えていると変に落ち込むのだ。この手のことを考えてハッピーになったことはない、一日中ああでもないこうでもないと頭のなかをグルグル、何もしたくなくなる。
スピリチュアルも同じようなかんじだった。昔はスピリチュアルが大好きだった、あっちの世界にどれほど胸を膨らませていたことか 。でもある日突然目が覚めたように好きじゃなくなった。危ないなと思ったのだ。確かに目に見えない世界もあると思うし、目に見えない力を信じることもかまわない。けれど実際生きているのはそっちの世界ではなく、ここ。そっちに浸り過ぎると危ない。自分がそうだったからなのだけど、スピリチュアルの方向に行き過ぎると、上から目線で世の中や人を見てしまう傾向はないだろうか。魂のレベルが...なんて、よくもまぁバカげたことを考えていたなと今は思っている。あと、この世の中は狂っていると現実を見なくなっていたのも確か。
だからと言って、スピリチュアル的な生き方をしている人を否定するわけでもなく、嫌いになるわけでもなく、それはそれでいいと思っている。私だって、木々を見れば魂を感じるし、海を見れば地球も生きてんだなぁなんて毎回思うのだ。でもね、神様がこう言うからとか、そういうのは止めた。あれ、なんでスピリチュアルの話を始めたんだ?そうだ、スピリチュアル熱がある日一気に冷めたように、哲学熱も最近ふと冷めたんだ。それが言いたかった。
で、正義の話に戻るけど、Michael J. Sandelは(政治)哲学の使い方をこう言ってるんだ。哲学というものは、私たちがこれまで全く疑問にも思わなかったことに問いを投げかけて人々を悩ませ、考えさせる。例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」とか、そんなの当たり前でしょと思うかもしれないけれど、果たして殺人は罪だと言い切れるのか。私は家族を人質に取られ、とある一人を殺さなくてはならなくなったとする。そのとある一人とは面識もなく、相手は両親も妻子もおらず独り身。その一人を殺せば私を含む家族4人の命は助かる。しかしその相手を生かせば4人の命は無くなる。この状況でも殺しはいけないのか、1人が死ねば4人が助かる。これが例えば100人だったらどうなるのか、1人を殺せば100人が助かる。哲学者、そして私たちは長年同じことを議論しているけれど、未だに答えは出ていないのだ。懐疑主義といって、そんなことを考え続けるのはナンセンスだ!現実をみろ!という主張もあるけれど、それでも人々は同じことを考え続けている。それはなぜか。
The reason is that we live some answer to these questions all the time.
その疑問に答えを出しながら日々生きているから、と彼は言う。(翻訳サイトでは、これらの質問に対する答えを生きているからだ、とも書いてあってそれもいいなと思う。) さらに続けて、答えなどなくても哲学は避けられない、哲学を学ぶことで不安定な気持ちにもなるだろうけど、その不安が考え方や政治の行い方など、様々な場面で役に立つんだ、と言っている。
最近、哲学っぽく考えるのはもう止めようと思っていた。懐疑主義のように、考えても無駄だと思うようになっていたし、さっきも書いたけど、考え過ぎて不安になって、さらには何もする気が起きなくなる状態にわざわざ自分を持っていきたくなかったのだ。しかし今回これを読んで、ちょっと気持ちが変わった。というか、私の考えることなんて哲学というよりただの悩み事だけどね(笑)まぁこれから哲学に触れる機会があったとしたら、上手に吸収していきたいなと思う。何事もバランス。
あー、書き過ぎちゃった。

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